家に残されたライシャは、ロイたちが出発してから数日の間、何も手につかない状態でぼんやりと日々を過ごしていました。
いつもであれば今ごろは最初の街かふたつめの街に着いていることでしょう。
隊の皆は荷の積み下ろしや仕入れを行い、ライシャはそれらについての帳簿を整理したり、衣類やタペストリーなどの積荷に不備がある場合はそられの修繕にとりかかる手はずを計算している頃合です。
なのにこうして家でじっとしているとすべてが狂ってしまったように感じられてなりません。
フェイラムの屋敷にいた頃は毎日、家のなかでこのように静かに暮らしていたはずなのに、一度旅商人としての暮らしに慣れてしまうと、普通の女性としての日々が別の世界の出来事であったかのようにも感じられるのです。
そうしていても時間だけは静かに過ぎていきます…
ぼんやりと時計を見たライシャは、改めて自分が今19歳であることを思い出しました。
新しい生活に慣れることで手一杯だったので、そんなことを考える余裕さえなかったのです。
19といえば、普通の娘であれば成人の儀で着る晴着の用意を始めます。
20歳の成人の儀に着るドレスを自分の手で縫うこと―これはヴェストゥールの娘であれば誰でも―国主の姫君も平民の娘もあまり≪封印貴族≫の娘であっても誰一人の例外もなくこなさなければならない仕事でした。
ライシャもフェイラムの屋敷にいれば今頃は街長の姫君の成人の儀の晴着に相応しい美しい布を父母から渡されて、順調にいけばドレスの仕立てや、展示用のタペストリーの作製などにとりかかっていることでしょう。
もしかしたらタペストリーではなく当日の宴席の料理についてあれこれ考えているかもしれません。
異母兄や異母姉の横槍が入らなければ。
「…」
そこまで想像したライシャは思わず苦笑していました。
現実的に考えれば、異母妹の食事に毒を盛ることも考えかねないような異母兄と異母姉が、成人の儀でより美しく装うライシャの邪魔をしないはずがないのです。
ライシャ自身、そんな日々に耐えかねてフェイラム家をあとにしたのですから。
ライシェリーゼが「パルムの赤薔薇」と称されるようになったのは15歳の儀の時でした。
ヴェストゥールでは子供が15歳になると、男の子は大人用のフェレーズをまとい、女の子は大人の女性のフルレングスのドレスを着るようになります。ただし、このときの晴着は20歳のときとは違って親が用意することになっています。
男女とも、この着替えをもって子供時代に別れを告げることになるのですが、この第一の成人式ともいえる儀式が15歳に行われることから「15歳の儀」と呼ばれているのです。
このときにライシェリーゼが着たのは真紅のドレスでした。
父がこの日のためにロムルから取り寄せてくれた品です。
真紅のドレスをまとい、黒髪にシャレインの黄金細工の髪飾りを飾って、街長の姫君に相応しく気品をもって歩くライシェリーゼの姿は、列席した者皆に彼女の血筋のことさえ忘れさせるほどの見事なものでした。
―母とともに離れにいることが多く、公式の場にもあまり姿を見せないライシェリーゼは宴の空気に酔ってしまってこっそりと庭に出ました。
宴が行われている広間から少し離れると、多少は喧騒もおさまります。
庭の木に手をかけようとしていたライシェリーゼは、次の行動にとりかかろうとして、今自分がどんな格好をしているかを思い出しました。
今着ているのは足首までのスカート丈の子供の服ではなく、ヴェストゥールの最高級の生地で仕立てた大人用のドレスです。このような格好で木に登ったりすれば、次の瞬間にはドレスを台無しにしてしまうことでしょう。そうなればまた悪い噂が立って、今日の主賓の母として、父の隣の席にいるエリーシアにも迷惑がかかってしまうことは明白です。
「…」
ライシェリーゼは軽く額を木にあてました。
金の髪飾りが軽い音を立てます。
「そこにいるのは誰だい?」
「!」
ライシェリーゼはびくりとして振り返りました。
彼女の前にいるのはひとりの若者です。どうやら彼も宴の場から抜け出してきたようです。
「あなたは今日の招待客の方ですね。
ひ…人に名を聞くときには自分から名乗るのが礼儀であると教わらなかったのですか?」
背筋をのばしたライシェリーゼは、今日の招待客のひとりと思しき若者の方を真直に見据えます。
「姫君、失礼しました。
ジェラルディン・イリス・ヴァルトゥスと申します。
本日のフェイラム家の姫君の15歳の儀の祝宴に招かれたのですが―
この街で美しい真紅の薔薇の花を拝めるとは思ってもいませんでした。」
ジェラルディンと名乗った若者は優雅な身のこなしでライシェリーゼの手を取りました。
片や、若者の名を聞いたライシェリーゼの方は混乱極まっています。「ヴァルトゥス」といえば、ヴェストゥールにその名を知らぬ者は誰一人として存在しません。
その名は国主の家の名です。
そして「イリス」とは国主の家の一族の男性の名に添えられるもの―女性形は「アイラ」―です。
つまり、ライシェリーゼは今国主の若君のひとりを相手にしているのです。
「わたしは…
―ライシェリーゼ・ティーア・フェイラムです。」
ライシェリーゼは半ば恐る恐る名乗りました。本名を聞いて彼がライシェリーゼにどのような反応を返すかが怖かったのです。
かといって、国主の若君に偽名を名乗るのも失礼でしかありません。
「では改めてよろしく。
パルムのライシェリーゼ姫―赤薔薇の姫君。
―今更あの喧騒のなかに戻るのもなんですね。
そういえば、フェイラムの家には美しい庭園があるらしいが、夜の群花というのもさぞや美しいことでしょう。
よければ案内してはくださらないか?
薔薇の妖精の案内で南方でも評判の庭園を巡ることのできるわたしはなんと幸運なのだろうか。
今日、ここに来て本当によかった。」
若君はライシャの名を聞いてからも、最初と同じ微笑みを彼女に向けてきます。
国主の若君であれば、「パルムのライシェリーゼ」といえば誰を母に持つ姫であるかを知っているはずなのに…。
ライシェリーゼが「パルムの赤薔薇」と呼ばれるようになったのはそれからでした。
とはいえ、エリーシアのことを知る者は母方の血筋のことを意識するのでしょうか、ディレイのメリルアンジェ姫のように大量の求婚の書状に悩まされることにはなりませんでした。
このことはライシェリーゼ本人よりもむしろ、エリーシアの方が気に病んでいました。
エリーシアとしては、自分が≪封印貴族≫の血のために屋敷で肩身の狭い思いをするのは仕方がないとしても、叶うならば娘には同じ思いをさせたくはなかったのです。
その後どれだけかして、メレルの宮廷から正式にライシェリーゼに求婚の書状が届きました。
求婚の主はジェラルディンです。
この知らせはフェイラムの屋敷中をあらゆる意味で驚かせました。
パルムの長は喜びと驚きをもって受け取り、エリーシアは心から娘の幸運を祝い、未来の幸福を願いました。
求婚状の噂を聞いた街の人々もまた驚き、複雑な思いでフェイラム家の第二姫を祝福します。
しかし、皆が皆ライシェリーゼの幸福を願ったわけではありませんでした。
なかにはライシェリーゼが国主の若君の求婚を受けたことに関して、あまりよく感じていない人も存在していたのです―
―ジェラルディン様…久しぶりに思い出したわ。
今はどうしていらっしゃるのかしら。
結局あの話はお異母姉様やお異母兄様の横槍でお流れになったけれど…
今にして思えば、わたしにとっても、そしてジェラルディン様にとってもこれでよかったのかもしれないわね―
ライシャは回想を断ち切ると、現在に意識を戻しました。
ロイが彼女を旅に連れて行く必要性を感じなくなったとしても、仕事は他にもいろいろとあるのです。
それに、今の彼女が旅に不要であるとしても、ロイがいない間に彼女が別の技能を身に着けていれば、今度はロイの方から隊に戻ってくるように言ってくるかもしれないのですから。
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