どのくらいそうしていただろう。
目が覚めたら知らないところにいた。まだ夢を見ているのだろうか?
いや、『ちがう』。
そうだ。私は…
ようやく気を取り戻した茴香は寝台からおりてぼうっと考えだした。
『キョウカ姫』と呼ばれる自分。
エリダイルという人。
ここは…どこ?
見知らぬ部屋
見知らぬ服
見知らぬ雰囲気
まるで夢の中にいると錯覚してしまいそうな世界。
確か彼は言っていた
ディレイ…と…。
「そう言えば、彼は?」
茴香はここで静かに待っているべきか、部屋を出て真相を確かめるべきかを迷ったが、意を決して扉を開けた。
ペチコートやパニエをきちんとつけているため、この世界の女性の平均的な衣装である裾の長い服は想像したよりも動きやすい。
階下から人の声が聞こえた。
薔薇色のドレスを着た茴香は静かに階段をおりた。
声の主はエリダイルと屋敷の使用人だった。
街長の補佐は魔法使いの家から戻ってきたのだ。
同じ頃、ディレイの街の長の家にも、数時間のうちに街中の噂になっている乙女―陸上に住む者には越えられない水を渡った姫―に複雑な思いをめぐらせている者がひとりいた。
それは街長の一人娘。
街中は突然現れた少女の噂でもちきり。
その少女はエリダイルの屋敷にいるという…。
内心穏やかでないものの、街長の娘として落ち着いた様子を装う。
もしも彼女がディレイの長の一人娘でないならば、今すぐに自邸を飛び出してエリダイルの屋敷に向かっていたかもしれない。
しかし、よく考えてみれば今慌てる必要はないのだ。
どのみち明日になれば真相を知ることが叶うのだから。
アレクシスに魔法を依頼したのは街長。
ということは、魔法が何らかの結果を見せたとなれば、魔法使いはこの屋敷までその報告をしに来なければならない―ということになるだ。
エリダイルも街長の補佐―または魔法使いの弁護役―として姿を見せることだろう。
事と次第によっては『水を渡って来た少女』も二人一緒に来るかもしれないのだから。
自分がそんな風に噂になっている事など少しも知らない茴香は、エリダイルの屋敷内を歩いていた。
「いかがなさいましたか?」
突然後ろから声をかけられて振り向けば、先ほど自分の世話をしてくれたティセリアが立っていた。
「え…えと、エリダイルさんに聞きたい事があって…」
「旦那様はただいまお客様とお話中です。さあ、部屋にお戻りください」
ティセリアは茴香の腕を取って、有無を言わさず部屋へと引き返す。
キョウカはわけもわからず部屋に帰され、ぽかーんとしてしまった。
はっと気がついて隣にいるティセリアに恐々と問い掛けた。
「あ…あの」
「なんでしょう」
笑顔で答える彼女の顔は少し複雑な表情にも見えた。それが少し怖くも見えた。
「あ…いえ、なんでも…ないです」
思わず目をそらしてしまった。茴香は無意識に小さなため息をついていた。
…どうしよう……。
「…ご心配は無用ですよ。旦那さまはキョウカさまをお守りくださいますわ」
ティセリアの微笑みには客への気遣いとともにエリダイルへの信頼が宿っている。
そういえばこの屋敷に来る道中でも、エリダイルは不安げな茴香を気遣いつつも、すれ違う人々が投げかける挨拶に快く応えていた。
ディレイの民の彼に対する態度のなかの純粋な敬意と好意は、この世界に来て間もない茴香にも敏感に感じとれるほどのものだった。
彼女を助けてくれた人物がどのような者であるかということに改めて考えをめぐらせてみると、自分の運に感謝せずにはいられなかった。
茴香が出会った人が悪人であるならば、屋根の下で夜を過ごすどころか、最悪の場合、今頃は日本から遠く離れたこの地で誰にも知られることなく屍になっていた可能性もあったのだ。
本当に運が良かったと思う。
いきなり異世界に来てしまったのは不運だが、彼に会えた。
彼が自分を助けてくれたのだから。
彼には感謝しなくちゃ…と心の中で呟いた。
―――そもそも誰のせいでここに来る事になってしまったのかも知らずに…。
「―このような時刻に予告もなしにお訪ねしまして、申し訳ありませんでした」
「構わない。話を聞かなければ問題に気づくこともなかったのだから。物品税の問題には早急にあたろう」
「助かります。このような状態が続けばディレイの民は暮らせなくなってしまいます…。一体いつの時代から長の役目は暴政ということになったのか…」
応接間でエリダイルとの話に区切りをつけた男性は再度肩を落としてしまった。
(せめて、長の姫が早急に御夫君となる方をお選びくだされば婚儀を機に、街長の位を御夫君に譲与することも可能だが…御夫君についてはあくまで姫が決定することだ。
それよりも今はキョウカ姫やアレクシスの身の安全もはからなければならない。悠長に憂いている暇はない)
エリダイルは自分に言い聞かせるように思考を整理している。
その後も少し話すと、男性は帰っていった。
男性が去って他に誰もいなくなった部屋で、エリダイルはそっと息をつかずにはいられなかった。
だが、小さく頭を振ると立ち上がった
「…キョウカ姫のご様子も見てこなくてはな…」
エリダイルは茴香のいる部屋の扉を静かに二度叩いた。
ティセリアが扉を開けるとエリダイルが中に入る。
「姫君、ご不自由はありませんか?」
「エリダイルさん、いろいろと有難うございます。
さきほどいただいたお食事も、このドレスもわたしには過分なほどで―」
ティセリアがキョウカの食事を部屋に運んだのはエリダイルが客と話している間だ。
「よくお似合いですよ」
エリダイルは静かに微笑みかけた。
それは相手に安心感を与えるように努める微笑みだった。
同時にそれは、目の前の者に現状をどこまで説明するべきかを悩む者の表情でもあった。
茴香はそのことに気づきはしたが、それほど深く考えはしなかった。
だが茴香はふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あの…聞きたいことがあるのですが…」
エリダイルはその声に顔を上げる。
「なんでしょう?」
彼は先程と同じ笑みを浮かべる。
(へぇ〜、この人って綺麗なんだ…)
不謹慎にも、茴香は彼に見とれてしまった。
この屋敷に来る道中にはぜんぜん気がつかなかったのだ。
だが、今こうやって目の前の人物の容姿に気が行くようになったのは、多分、時間が経ってここに来た時よりは幾分気持ちが落ち着いたせいだろう。
「…姫…?」
突然、自分の顔を見つめはじめた茴香の様子にエリダイルは首をかしげる。
「ごめんなさい。不躾なことをしてしまいました」
茴香はエリダイルから視線を少しだけ外した。
とはいえ、一度相手をそのような形で意識しまった直後では一呼吸置く間に平静に戻ることは困難だ。
「…あなたのような姫君が、か弱い乙女の身でただひとり、あのような場所にいたのです。おそらく深い理由がおありなのでしょう。
明日は屋敷を留守にしなければなりませんが、あなたの安全はお約束します」
目の前にいるのが不安そうな瞳をした乙女ではなく、若い勇者であったなら、若者が呼ばれた理由や、ディレイの苦しい内情を打ち明け、アレクシスも交えて夜通し話し込むことだろう。
街の副長として、最終的にはディレイの街と民を現状から救う協力を得るために。
しかし、茴香にその役を求めるのはどう考えても無謀でしかない。
…とにかく、彼女がこれからどうすべきかを考えなくてはならない。
元の国に帰すのなら、できるだけ早い方がいい。
それとも、この国に残すのなら…。
「エリダイルさん?」
先ほどのエリダイルと同様に、今度は茴香が首をかしげる。
「あ…いえ、それで聞きたい事とは?」
「この街の人たちは、湖や河を渡るということをどういう形でとらえているのですか?」
茴香はずっと気になっていた疑問のひとつをエリダイルに打ち明けた。
「わたしたち陸に住む者は、太陽の光のもとにある河や湖などに触れることは叶いません。そのため、浴場や洗濯場、そして井戸などの施設がすべて地下に作られています。
陸の者で河や湖に触れることが叶うのは、神に比類する力を持つ者か、異世界人のみです。これは水の種族から見れば逆になることでしょう。
そして水に住む種族は水際の金色の草に触れられないので、上陸することはできません。
あなたが休んでいた場所にあった金色の草をおぼえていますか?」
言われてみれば茴香が最初にいた場所も、ディレイのある陸地も、内陸のものとは違う金色の草が水際を取り囲むようにして風になびいていた。
「…たぶん…あったと思います…」
茴香は小さく頷く。
そしてそのまま黙り込む。
(…そっか…、本当に違う世界なんだ…)
それまでも感じていた違和感が、今の説明によって余計に強くなる。
太陽に照らされた水に触れる事ができない…だなんて聞いた事もない。
茴香は両手を祈るような形で握り合わせた。指が微かに震えているのがわかる。
「あの植物は水のセレンダイル族から我々を守護しているのです。
守りの力は水辺に一番近い場所に住む魔法使いか神官の祈祷で強化しているのですよ」
―魔法使いか神官―
エリダイルの言葉を聞いた茴香はハッとして顔を上げた。
ディレイもそうした人がいるのなら、そのうちの誰かが彼女を日本に帰す術を知っているかもしれないのだ。
「アレクシス様、申し訳ありません…わたしの力が足りなかったせいでこんなことに…」
「シルヴィナ、気にするな。エリダイルもいることだし、街長の方は…なんとかできるさ」
茴香をこの世界に呼んだ魔法使いは寝台の上の女弟子に頷いてみせた。
シルヴィナと呼ばれた女には気落ちした様子が見受けられる。
アレクシスはそんな彼女に静かに微笑む。
「お前は何も心配しなくていい」
「ですが…」
「これからの事は任せておきなさい。それより、お前は自分の体を癒す事に専念しなさい」
シルヴィナは枕の上に頭をのせたままの姿勢で黙って頷いた。
あのとき、アレクシスを手伝っていた彼女の力ががあと少し強かったならば、師の魔法は確実に成功していたのだ。
だからこそ、今は茴香の噂がディレイ中をかけまわっている間も自分を気遣ってくれるアレクシスの心遣いが重く感じられてならなかった。
「この街にもその…魔法使いや神官という方はいらっしゃるのですか?」
「勿論ですよ。守護の祈祷を行う人物は水辺の街には絶対不可欠ですから。
近日中に姫君にもお引き合わせしましょう」
エリダイルは「明日」という言葉を引っ込めた。
エリダイルとアレクシスは、明日はおそらく一日の殆どをディレイの長の屋敷で過ごすことになるのだろうから…。
「他になにかありますか?」
複雑な心の内を隠しながら、茴香に再び微笑む。
「………いえ、今は…」
対する茴香の方も、複雑に揺れ動く心中を抑え微笑み返す。
「では、今日はお疲れでしょう。私はこれで失礼しますので、ごゆっくりとお休みください」
「…はい、ありがとうございます」
エリダイルとティセリアが部屋を去っていくと、茴香はため息をつきつつ寝台にその身を沈めた。
与えられた情報はほんのわずかなものであったのに、その頭と心は酷く混乱していた。
他にも聞きたい事は山ほどあったが、それを差し置いても一人で考えたかったのだ。
校舎の屋上で昼休みを過ごしていたと思ったら、次には見知らぬ場所に立っていた。
あのとき、満月の光のように輝く守護の草のある丘を見つけなければ向こう岸で何をしていただろうか。
少なくともエリダイルと会うことはなかっただろう。
思えば、茴香をいろいろと気遣ってくれるエリダイルにも謎が多いようだ。
エリダイルは茴香を「水の彼方から来た異国の姫」として大切に扱ってくれる。
しかし、茴香に特殊な力などはない。日本ではごく普通の高校生の女の子なのだから。
もし…もしも異世界に飛ばされたことに何かの理由が隠れているのならば…
そこまで考え茴香はため息をついた。
そして何気なく自分の周りを見回す。
茴香が横たわっているのは童話のお姫様が使っているような可愛らしい寝台だ。
先程、ティセリアがあらかじめ用意してくれていた夜着に袖を通して、寝台にもぐったのだ。
だが、心身ともにかなり疲れているはずにもかかわらず、なかなか眠りにつくことはできない。
一日のうちにあまりにもいろいろなことがありすぎて神経が昂ぶっているのだろう。
キョウカは何度も寝返りを打った。
頭の中では寝よう寝ようと思ってもなかなか寝付けない。
いつもはどうやって寝ていたのだろうか。
疲れているはずなのに。今にも寝そうになっているのは分かっているはずなのに。
歌でも歌えば気休めになるんだろうけどもう夜だしなあ。
そんな事を考えつつ茴香はもう一度寝返りをうった。
そんな時、ふと窓の外が明るい事に気が付いた。
いつまで経っても眠れないため寝るのは諦めて、寝台から身を起こして窓に近づく。
「うわぁ…」
カーテンを引いてみれば、空には満月が二つ浮かんでいた。
あたりは地球のそれとは比べ物にならない程明るく、ただただ呆然とその月を見上げるしかなかった。
これもまた、日本…いや、地球では絶対に見ることが叶わない風景だ。
天空に浮かぶ月をよく見ると、大きい方が動きが速いようだ。
小さい方よりもこの世界の近くに浮かんでいるのだろう。
地球では月は海や魔法などに力を与えていた。
エリダイルの話から想像すると水と陸が特殊な関係にあると思われるこの世界でも、やはり月の光は魔法使いたちや水と不思議な同盟を結んでいるのだろうか?
「私…ちゃんと帰れるよね?」
茴香は同じ位置に留まり続けている小さな月に向かって静かに呟いた。
エリダイルと向かい合っていた時は、一番知りたいことであったにもかかわらず恐くて口に出することができなった言葉だ。
何度も口にしようとした言葉
何度も喉元まで出かかった言葉
何度も心の中で呟いた言葉
「私…ちゃんと帰れるよね?」
もう一度、月に向かって呟く。
だがその言葉に答える者はいなかった…。
目が覚めた時にはすでに朝らしき景色を迎えていた。
あれだけ不安だったのにいつの間にか寝てしまっていたらしい。
茴香にはそれが不思議としか思えなかった。
ふと、まわりを見回す。
…やっぱり夢ではなかった。
そう思ったとき、ドアが『コンコン』を音をたてた。
………人?
「おはようございます。昨夜はお寝みになれましたか?」
茴香の返事に応えたのはティセリアだった。
茴香が起床するタイミングを考えて起こしに来てくれたのだろう。
「ティセリアさん、おはようございます。
月がふたつあると夜の空も明るいんですね。驚いてしまいました」
「昨夜はどちらの月も満ちていましたから美しさも格別でしたわ。
キョウカさま、今日はどのような形に結びましょうか?」
ティセリアは話しながら持ってきた品…今日、茴香が着るドレスを広げていた。
ドレスにはやわらかい布の長い飾り帯が添えられている。
この飾り帯はこの世界の衣装には欠かせない小物なのだろう。
ティセリアの服にも飾り帯が昨日と違う結び方で添えられている。
ティセリアが茴香のために用意してくれたのは、淡い黄色のドレスに白の飾り帯。
ドレスには茴香の世界で言う、サテンのような土台にオーガンジーのような布が重ねられ、飾り帯もドレスに使われたものと同一素材と思われるオーガンジーのような布で作られていた。
きっと着用すれば、ふんわりとした雰囲気が出るだろう。
「その帯の結び方にはいろいろあるのですか?」
そんな質問にティセリアは一瞬目を見開いた。
「…ああ、そう言えばキョウカ様は異界の方でしたものね…」
彼女はこの世界では当たり前のことであるらしい事を聞いたために驚いたようだ。
「ええ、たくさんの結び方がありますよ。結び方によって意味のあるものもございます」
「結び方でいろいろな表現をするなんて…まるで、きもの…わたしの故郷の正装みたいね」
茴香は微かに微笑んだ。
思い返せば毎年お正月に着る晴れ着も綺麗な帯を背で華やかに結ぶ。
この世界と日本との帯使いの違いは、この世界では帯をまわす場所は腰とは限らず、結ぶ位置も一定ではないという所だろう。
「キョウカさまもお国でもこうした品をお使いになる習慣がおありなのですね。
便利な品ですからいろいろな世界で使われているのかもしれませんね。
解けば離れたな所から水面のものを拾い上げることもできるし、結べばお洒落に使えます。
この使い方もフォーテイルとセレンダイルの関係がなければ気付かなかったことでしょう」
「フォーテイル?」
聞いた事のない単語に茴香は首をかしげた。
「ああ、私たちの事です。水のセレンダイルに対して陸に住む私たちを示す言葉です」
「?…人間の事ですか?」
茴香は尚も首をかしげる。
「ニンゲン?何ですか、それは?」
その言葉に今度はティセリアの方が首をかしげた。
「世界に文明を作って生きる…ええと、わたしやあなたのような形をしていて―」
茴香はティセリアの問いに対する答えを探そうとした。
なのに、頭の中では言いたいことがわかっていながら、それがなかなか言葉という形になってくれない。
同じ頃、朝の身支度を整えたエリダイルが食堂に入った。
「旦那様、おはようございます。
『水を越えた姫君』はまだお寝みのようですが、お声掛けしてまいりましょうか?」
エリダイルが視線で何を探しているかに気付いた給仕の女性が主の無言の問いに応えた。
「いや、おそらくは精神的にもお疲れだろうと思う。ゆっくりと休んでいただく方がいい」
「………」
「これからいろいろな事があるのだから…」
「…えっ?」
エリダイルが小さく呟いた言葉に女性は反応する。
だが、その表情を見る限り、彼が呟いた言葉までは認識できなかったらしい。
「いや、なんでもない」
エリダイルは食べ終えたところでイスから立ち上がりドアをあけた。
「旦那様、どこへいかれるのですか?」
エリダイルはニッコリと笑った。
「ちょっと…『散歩』、にね」
そう言うとエリダイルは消え去るように静かにドアを閉めた。
「さてと………」
エリダイルは『散歩』へと出かけた。
参加者:れいあさま 瑞穂さま ミール・エア・リーデ
編集:れいあさま
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