目の前には見知らぬ風景が広がっていた。
とてもじゃないが、日本のどこか…といった雰囲気ではない。
不安感からか、風が実際よりも冷たく感じられるような気がする。
「わたしが…なぜ…?」
自身の身体を暖めるように両腕を動かしながら唇の内側で呟く。
こうして周囲をじっくりと見回してみても、自分に起きたことがまだ信じられないのだ。
といっても、いつまでここで悩んでいても埒があこうはずはない。
ここに自分を連れて来た門は既に消えてしまっている。
通常の行方不明事件であれば、この場をなるべく動かずに救出を待つことが得策だろう。
だが、今はそれとは事態が違う。
ここは日本ではない『何処か』なのだ。
動くか、この場に留まるか―
彼女はまだ冷静さを取り戻してきっていない思考を総動員して考え始めた。
幸いなことに森と河が近く、気候も穏やかなようだ。
そう遠くにいかずとも当面の間生命をつなぐのは難しくはないはず。

「どうしよう…」
どんなにあたりを見回しても人の気配はない。
…どこかからやって来る気配もない。
―このままでは埒があかない。
かなりの時間その場に立ち尽くしていた彼女は、ようやく自分がどう行動するか決めた。
そして足を向けたのは月明かりのようなやわらかな光のある低い丘らしきところだった。
とにかく今は人を探さなければ…。
あそこに何かあるかもしれない。逆になにもないかもしれない。
そこからくるのは不安。
そして期待感。
様々な思いを胸に秘めて丘をかけあがると、そこには広い湖が広がっていた。
辺りには人の姿はない。
だが、湖の岸に小さな舟があるのが目に入った。
彼女は思いきって舟を使うことにした。
向こう岸に行けば誰かに会うこともできるかもしれないという思いを抱きながら…。
慣れない手つきで懸命に櫓を操り、向こう岸さえ見えない湖を横切る間中、彼女は『何か』の気配を感じ続けていた。
それは人の気配に似たものであったが、今この場にいる人間は彼女一人。
もし、水の中に都市でもあるのであれば話は別だが…。
やがて不気味な気配を道連れにしながらの湖の横断が終わり、草の上に足を下ろした。
ふと空を見上げれば、日は既に西に傾きかけている。
慣れない作業で身体の疲れがひどく、まだ地面が揺れているようにさえ感じる。
これではすぐに動くのは無理だと判断し、休息を取るために草の上に座りこんだ。
足音をとらえたのはこの時だ。
その音の方を振り向けば、数人の男女が彼女の方に近づいてきていた。
その者たちの姿は自分と差異はないものの、その服装が明らかに違うものだった。
彼女は体を強張らせ、瞬時に警戒の色を見せるが、土着民らしき人々の瞳には一種の畏敬の念のようなものが込められている事に気付き、内心で首を傾げざるを得なかった。
「?」
彼女は周囲を見まわした。
人々の視線は、まるで有力者のような人物に向けられたものとしか思えなかった。
だから、自分のすぐ側にそういう存在の人物がいるのだろうと思ったのだ。
しかし、それらしき人物の姿は自分の周囲にはなかった。
人々の視線の先にいるのは自分一人のみだ。
まぎれももなく、その視線は彼女に向けられたものらしい。
「あの…これって…」
彼女はまるで自分を遠国の姫か英雄のように見つめている人々に恐る恐る声をかけた。
彼らの視線の意味を知りたかった。
加えてもうすぐ日が暮れる。
それまでに今夜の宿も確保しなければならない。
その思いが、彼女をこの行動へと駆り立てた。
だが、彼らは不思議そうな顔をするばかり。
―もしかして言葉が通じない?
彼女の胸の内に嫌な予感が広がった。
「あ…あなた方はここに住んでいらっしゃるのでしょうか?」
彼女は人々と真正面から向かい合い、彼らの瞳を見つめて問いかけた。
嫌な予感が的中していないことを繰り返し祈りながら…。
「………」
「………」
人々は小声でなにかを相談している。
それが言葉が通じないからなのか、はたまた、誰が見慣れぬ格好をした娘の問いに答えるか…の相談なのか…。
彼女の中には黄昏に近づく空に合わせるように心細さが増していった。
暫くの時間が経ってから、ひとりの男性が一団から一歩だけ前に出てきた。
「見苦しい真似をして申し訳ない。皆驚いてるのです。…あなたはこの湖を渡って来られましたね?」
男性はそう彼女に話しかけてきた。
その言葉を聞いて彼女は少しだけ胸を撫で下ろした。
その言葉が自分が使っている言葉と同じものだったから…。
幾分軽くなった気持ちを抱え、男性を見上げると、さっきの問いに答えるべく小さく頷いた。
それを受けて、彼の背後の人々はまたもやざわめきだした。
「ここは一体どこなのでしょうか?あなたがたはここに住んでいるのですか?」
後ろに佇む人々のざわめきなど気にはならなかった。
言葉が通じると認識した瞬間、数々の疑問が口をついて出た。
「おかしなことを言っているように思われるかもしれませんが、今日の真昼頃、唐突にこの地に飛ばされてしまったのです。わたしの故郷は他の世界にあって―」
とにかく現状を把握したい。
その一心で彼女は自分の身の上に起こった事を男性に話し始めた。
それを黙って聞いていた男性は、その言葉が止まるのを待ってから口を開いた。
「…なにやら複雑な事情をお持ちのようですね。これからいろいろと大変でしょう。よろしければ我々と一緒に来ませんか?」
男性の言葉は彼女が願ったものだった。
救いの神とも言いたくなるほどの言葉に顔を輝かせる。
「よろしいのですか?」
一応問いかけてみるが、男性はそれに静かに頷いた。
「この草の上に無事に立っているという事実が、なによりもあなたが怪しい者ではないことを立証しています。しかもあなたは陽の光のもとにある水を生きて渡られた」
「…草の上に無事に立っている?水を生きて渡った?」
男性の言葉に彼女は首を傾げる。
出来て当たり前のことが、何故、さも特別な事の様に言われるのだろうか…。
そんな疑問に思考をとられた彼女に男性は静かに微笑んだ。
「申し遅れましたが私はディレイの長の補佐のエリダイル・クローナと申します」
「実森茴香―キョウカ・サネモリです」
彼女もつられて普通に名乗ったが、ふと思い立って、英国式に名前を先に言い換えて名乗る。ここではその方がいいような気がしたのだ。
「喜んでお言葉に甘えさせていただきます。皆様にもお世話になります」
茴香はエリダイルと名乗った男性と、その後ろにいる人々にも助力への感謝をこめて礼をとった。
それから数刻後、茴香は彼らに導かれて、彼らの街へと足を踏み入れた。
目の前に広がる街並みは本当に見知らぬものだった。
テレビや本の中でさえ見たこともない風景。
心のどこかで、自分はちょっと迷っただけで、街さえ見つければ家に帰れるだろう…と思っていただけに、そのショックは思いのほか大きかった。
エリダイルと並んで歩くうちに、茴香は元の世界がたまらなく懐かしく思えてきた。
これぐらいの時間であれば、いつもだったら友達と連れ立っての放課後のショッピングを終えて家に帰りついている頃合だろう。
そのようなことを考えていると、どうしても懐かしい人々が心に浮かんでくる。
軽いホームシックにかかりかけた頃、一行の前に一つの門が見えてきた。
ここに着くまでに一行の数は随分と減っていたが、ここまで一緒に来た者もエリダイルに一言、二言挨拶してから方々へと散っていった。
エリダイルはその者たちを見送った後、門へと近づいていった。
「おかえりなさいませ」
「ご苦労」
門衛はエリダイルの姿を見るなり敬礼した。
そんな門衛にエリダイルは視線を向けた。
「後でもう一度出かける。…キョウカ姫、こちらへどうぞ。遠慮する必要はありません」
エリダイルは門衛に一言告げると、茴香についてくるように促した。
茴香は自分の名の後につけられた「姫」という言葉に戸惑いながらも門をくぐり、彼の後を追って屋敷へと進んだ。
屋敷の中は茴香が門の姿から想像したとおりの造りだった。
洒落た内装はこの家の主が、このディレイという国だか街だかの有力者の一人であることを雄弁に物語っているようだった。
「旦那様、おかえりなさいませ」
エリダイルたちが屋敷内に入るなり、一人の女性が近づいてきた。
「ティセリア、彼女を客間にお通してくれ」
「かしこまりました」
エリダイルの後ろに佇む茴香をちらりと見ると、ティセリアは頭を垂れた。
「それと、私はまた出かけてくる」
「今からですか?」
「急用だ。仕方あるまい」
もうすぐ夜になってしまうのに…とでも言いたげなティセリアにそう答えると、茴香に視線を移す。
「キョウカ姫、御婦人に必要なものは部屋にひととおり揃えてあると思いますが、他に必要なものがあれば彼女に相談するといいでしょう」
「はい…」
「ティセリア、後を頼む」
茴香が頷いたのを確認して、エリダイルはティセリアに声をかけ、また急いで出かけていった。
広い庭に囲まれた、塔のある家の中…。
薬草の香りが漂う部屋のなかでふたりの男性が向き合っていた。
「一体これはどういうことだ!?」
「街の副長ともあろう者がそう騒ぐな」
激昂する男性に対し、相対する男性は冷静な声を紡ぐ。
そんな男性の様子に、激昂していた男性は深い息をついた後に椅子に座りなおした。
「たしか、この召喚魔法は屈強な戦士か、知略に長けた策士を呼ぶためのものだったな?………アレクシス、長にどう申し開きをするつもりなんだ…」
激昂していた男性…ディレイの副長はテーブルに肘をついている方の手に額をのせた。
「さっきからどうした?成功の反応はあったと思うが」
魔法使いらしい白い上衣を着ている男性は、会話を続けながらも乳鉢の中をかきまぜる作業をやめようとはしない。
そんな様子を見ながら、エリダイルは再びため息をついた。
「成功はしたさ…、異世界から人を呼び寄せる…という点ではな」
「?」
エリダイルの含みのある言葉に、アレクシスの手が一瞬止まった。だが、すぐに作業は再開される。
それでも、その一瞬の間を見逃さなかったエリダイルは、彼がようやくこの話に聞く耳を持ったことを感じ取る。
そして言葉を続ける。
「…魔法が連れて来た者は我々の依頼に応えられるような男性ではないんだ。彼女の姿はどう見ても若い乙女のものとしか思えない。彼女―キョウカ・サネモリ姫は屋敷にいる」
「何!?」
アレクシスは驚いて顔をあげた。手は完全に止まっている。
「女性を危険な計画にに巻き込むなど無謀以外のなにものでもない。それとも、これも考えあってのことのか?」
ようやく顔を上げた彼の目を見据え、エリダイルは静かに問いかける。
その表情は真剣だ。目の前の魔法使いの一挙一動も見逃さないといった雰囲気を漂わせながら、エリダイルはその反応を見据えていた。
「この魔法が行われたのは長も御存知だ。明日は長の館へ報告にあがらねばなるまい」
そう、報告せねばならないのだ。…あの長に…。
「あの長のことだ。虫の居所が悪ければ、たとえ相手が魔法使いの長であっても手厳しい裁断を加えらるだろう」
そう言い放つエリダイルの表情はとりわけ厳しいものだ。
その表情が、現在、自分たちがどのような状況に追い込まれているのかを示しているようだった。
「別の人物を呼び寄せるためにもう一度この魔法を行うとしても、日時の細かい計算などの準備があるだろう?しかも我々はあの水を渡れないときている」
「………」
副長の言葉に魔法使いは眉間にシワを寄せた。
エリダイルの…友人の言葉が脅迫ではないことはディレイの民であるアレクシスもよくわかっているのだ。
二人は重たい雰囲気に包まれた。
その頃、茴香はあてがわれた部屋でぼんやりとしていた。
エリダイルがどこかへ行ってしまった後、やたらと大きな浴室に連れて行かれた。
訳もわからぬうちに湯浴みさせられ、こちらの世界の衣装に着替えさせられた後にこの部屋に通されたのだ。
最初は何もかもが物珍しくて、好奇心から室内のいろいろなものを見て回った。
だが、そのうち、大きな寝台に腰を落ち着けた。
そしてゆっくりと茴香はその意識を手放した…。
参加者:れいあさま 瑞穂さま ミール・エア・リーデ
編集:れいあさま
|
|